台南市観光「赤嵌楼と延平郡王祠」
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赤嵌楼「文昌閣」

赤嵌楼

 

台湾南部を占領していたオランダ人によって建てられた城で、植民地行政の中心になっていたところ。 当時は、プロデンシャ城(紅毛楼)と呼ばれていた。 1661年に鄭成功がオランダ人を駆逐した後、ここは承天府という名に変わり、政治の中心となった。 1862年には地震により建物は全壊したが、1879年には「文昌閣」、「海神廟」が建てられた。 現存の建物はプロデンシャ城や承天府の時代のものではありません。
(写真は、赤嵌楼「文昌閣」 … 2013.3.10)



 

オランダ人によって築城された旧跡「赤嵌楼」 当時は、プロデンシャ城(紅毛楼)
文昌閣 オランダ統治時代のプロビンシャ城と呼ばれていた城壁跡がそのまま残されています。

 

赤嵌楼「入口」 庭園の池 亀の上に乗った石碑
池の橋 文昌閣 鄭成功肖像画
当時の屋根の鴟尾 屋根の上に龍の鴟尾

 

金門島型水池(敷地内は公園となっており、川や池のほとりには、日差しを防ぐ東屋もあります。) アーチ形のドアの上に「前無古人」という額を掛かれている三川門
正殿 正殿内部「鄭成功坐像」

延平郡王祠

  鄭成功は、福建省出身の鄭芝龍と日本人の母、田川松との間に日本の平戸で生れ、7歳のときに、父の故郷である福建省へ移った。
その後、清王朝が明王朝を滅ぼそうとしたときに、鄭一族は明側に味方するが、1659年、南京で清王朝に大敗し、体制を立て直すため台湾に逃れた。 そして、その台湾では、台湾南部を占領していたオランダを追放して台南を政治の中心と定めたが、1662年に38歳で死去。 その死を悼む民衆が、1874年に延平郡王祠の前身となる廟を建立した。 日本統治時代には、日本風に改築され、開山神社と改名されていたそうです。 境内にある「台南民族文物館」には貴重な古代芸術品が収蔵されています。



 

鄭成功の石像 大門 敷地内は公園となっており、東屋もあります。
日本の絵馬のような木札がかけてある 正殿 祀られた鄭成功坐像
鄭成功の日本人の母親(長崎県平戸市、田川氏の位牌) 鄭成功文物館

 

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