■ | 赤嵌楼 |
台湾南部を占領していたオランダ人によって建てられた城で、植民地行政の中心になっていたところ。 当時は、プロデンシャ城(紅毛楼)と呼ばれていた。 1661年に鄭成功がオランダ人を駆逐した後、ここは承天府という名に変わり、政治の中心となった。 1862年には地震により建物は全壊したが、1879年には「文昌閣」、「海神廟」が建てられた。 現存の建物はプロデンシャ城や承天府の時代のものではありません。 |
■ | 延平郡王祠 |
鄭成功は、福建省出身の鄭芝龍と日本人の母、田川松との間に日本の平戸で生れ、7歳のときに、父の故郷である福建省へ移った。 その後、清王朝が明王朝を滅ぼそうとしたときに、鄭一族は明側に味方するが、1659年、南京で清王朝に大敗し、体制を立て直すため台湾に逃れた。 そして、その台湾では、台湾南部を占領していたオランダを追放して台南を政治の中心と定めたが、1662年に38歳で死去。 その死を悼む民衆が、1874年に延平郡王祠の前身となる廟を建立した。 日本統治時代には、日本風に改築され、開山神社と改名されていたそうです。 境内にある「台南民族文物館」には貴重な古代芸術品が収蔵されています。 |